(元)リケジョのポスト

元企業研究員の元リケジョが、技術革新型イノベーションを諦められない話

「技術で世界を変える」とは

「技術が世界を変える」とは

私は元リケジョなので、「イノベーション」とか「新規事業」とか「起業」とか言われれば、圧倒的にやばい技術で100年人類を悩ませた社会課題をいとも簡単に解決する、というイメージを持つ。しかし理系村を出て新規事業を生業とする人たちや起業家などと会話するうちに、これが一般的なイメージではないことに気づいた。

定義どおりに言えば、イノベーションとは、イコール技術革新ではない。

その証拠に(?)、GAFAは技術革新にこだわっていない。イノベーターは社会にインパクトを与えてなんぼだ。イノベーション=技術革新という考えは、日本人が陥りがちな誤解だ。だから日本人、特に技術系の人間にはビジネスが作れない。…という意見も見る。経験的にもそうかもしれない。

それでも私は、技術革新型イノベーションによるインパクトはそうでないイノベーションより大きいと考えている。

新型コロナウイルスでどれだけ人の関係性や仕事のやり方が変わろうと、今のところ映画MATRIXの世界に移行する気配はなく、我々は肉体を持ち、食べ、排泄し、睡眠する。身の安全や快適性を求める。今日日ラッキーなことに、人間は(特定の国や、エッセンシャルウォーカーと言われる人以外は)オンラインに入り浸っても食料を得、適度にコントロールされた空調と水周りで清潔さを保つことができ、安全に眠ることができる。

今日の日本人にとって、この「当たり前」は未知のウイルスより、地震や台風で脅かされる。電気や水道の寸断で生活が破壊されることは深刻に報道される。私自身も、もちろんウイルスに感染して発症することへの恐怖心はあるが、インフラ寸断が重なった場合の生活の崩壊の方が怖い。

このようなベーシックな、エッセンシャルな安心・安全・快適は、アプリやSNSでなく、全世界民の生活の裏にびっしり張り付いたような形で提供される。なので、この「びっしり張り付いた」、一部はローテクな技術が革新されないと、真の安心・安全・快適は得られないだろうというのが、私の主張、というか、私が持っている世界観だ。

2018年秋、リチウムイオン二次電池の実用化に貢献した3人の研究者が、ノーベル賞を受賞した。うち1人は日本人。旭化成の吉野彰氏だった。以前から「パリピのアイデアハッカソンリチウム電池は産まれないだろうが!!!」と言っていた私的には、説明がしやすくなって大変ありがたい。ノーベル賞は、浸透しすぎて当たり前になった技術に改めてスポットライトを当てる役割もあるのかもしれない。

リチウム電池について、実用化される前の研究者・技術者の認識はこうだと想像する。

いい電池があればあれもこれも前提条件が変わる。ま、そんなもんがあれば苦労はしないけどね

私が志向する「技術の事業化」とは、「そこらへんにあった技術にキャッチコピーをつけたら思ったより売れた」ということではない。「技術が世界を変える」がセットでないと意味がない。「技術が世界を変える」とは、リチウム電池のように、人類への浸透度が高い課題・目標をクリアすることだ。人類の共通命題を

ただ昨今では、「技術革新型イノベーション」という成果の獲得はかなり難しくなっている。資金があるとか、有名な研究室に所属していたとか、資金があって有名な企業に所属しているとか、それだけでは成功しなくなっている。昔も決してそこまで単純だったわけではないだろうが、1980年ごろなら、日本は世界の先頭集団とか、経済は一流とか、技術力は世界一とか、そういう風に考えていられた分、日本の研究者・技術者は目の前のことに集中できたのではないかと思う。

では、何がかくも、私という元研究者の集中を削いでしまったのか。私の場合は、原因は3つある。

  1. 戦力が正しく出力されていない
  2. 日本のプレゼンスは確かに下がっている
  3. 「技術一流、経営二流」

1.   戦力が正しく出力されていない 
〜28時まで実験する日本人、16時に帰るフランス人〜

2000年ごろ、日本は、応用研究や生産技術では他国に対し優位性があるものの、基礎研究では依然として欧米に負けており、近年では応用研究や生産技術も危うい、とされていた。20年経った今となっては、応用研究や生産技術の優位性すら微妙だろうが、20年前はそんな論調だった。

大学には色々な国からの留学生が来ていた。アジア(中国、インドネシアバングラデシュなど)の留学生は日本の不夜城文化にある程度合わせるのだが、欧州(フランス)の留学生は全く意に介さない。マジで16時に帰る。

私自身も不夜城文化は肌に合わず、16時とは言わないものの18時に帰るような人間だったが、24時でも28時でも嬉々として実験をし続ける日本人の先輩・同級生・後輩はたくさんいた。

日本に留学する学生がどういう層か、と考えると必ずしも単純な比較はできないが、敢えて単純な比較をすると、「16時に帰ってもそこそこの研究開発力を維持できるフランス」と「28時運用でもなお基礎研究は負けている日本」という対比が浮かび上がる。

また、日本人同士で比較しても不思議に思うことがあった。毎年、国際学会でオーラル発表をする修士を輩出できる研究室と、国内学会のポスター発表で終わる研究室があるのだ。同級生として接していると分かるが、学生同士、どの研究室に配属されようがそこまで大きな能力の差はない。とすると、「研究室の教育、マーケティング、戦略のいずれか、あるいは全てが修士の成果を決めている(修士の能力ではなく)」という仮説が導き出せる。

この辺りから、「日本人はものすごく頑張れるという利点があるが、戦略的に推し進める機能がないと、その頑張り、意味ないのでは…?」と考えるようになった。

 

2.   日本のプレゼンスは確かに下がっている
〜入れ替わるエアコンの室外機〜

2004年にスペイン・アンダルシア地方を旅した。アルハンブラ宮殿が有名だが、白い壁の街並みが印象的な地方だ。ヨーロッパは、もう少し北上すると夏でも涼しいため家庭にエアコンが設置されていないのか、熱波で大量の死亡者を出すことがある。しかしこの地方は夏が十分暑いため、各家にエアコンが設置されていたようだ。裏路地を歩くと、室外機が並んでいた。

室外機は、黒く煤けたものと、汚れが少ないものがあった。だいたい、煤けたものは古く、汚れがないものは最近購入したものだと察せられた。

エアコンの室外機には目立つ大きさの企業ロゴが貼り付けられている。煤けたものは「TOSHIBA」や「MITSUBISHI」で、新しいものは「LG」や「Samsung」だった。

要は、昔はみんな日本製品を買っていたのが、新調する家はみんな韓国製品を買っていたのだ。

2004年.日本は白物家電では負けたがテレビやPCでは勝っているとか言っている時代だった。しかしあの室外機の光景は、そういう問題じゃないと感じさせた。そして実際に、2010年までに結果が出てしまった。

 

3.   「技術一流・経営二流」
〜負けに誇りを持ってしまう技術者たち〜

「28時まで無償で実験を続けられる学生」は、就職後、「お金をもらって好きなことをできる研究員」にクラスチェンジする。

決して若い者だけがそう言っているわけではない。管理職・役員も同じ思想だ。一見、好きなことを集中してやれるのは良いことだ。しかし、それがビジネスマンとして大成するとどうなるか。

「うちは〇〇をアメリカより先に開発した。技術は優秀なんだけど、ビジネスでは負けちゃうんだよね」と笑うのだ。

企業はビジネスをする集団である。笑いごとではないのだ。

この手の冗談(?)を飛ばすビジネスマンには「誇り」が感じられる。ひとえにこの「誇り」は、自分たちの仕事(=技術確立)は世界で負けてないが、他人の仕事(=事業化)は他人(文系とか、事業部とか、経営とか)がミスった結果だという意識からくる、と思う。

同じ技術者(研究者・研究開発要員)だった元理系としては、

なに人のせいにしてんだよ。

とか、

研究で終わっていいのは大学の仕事で、企業がビジネスで負けることを誇っちゃダメだろう。

という怒りもあるし、

あの組織構造でビジネスに責任持てというのはあまりにも無茶が過ぎる。

という同情もある。

 

日本流「技術で社会を変える」

エアコンのエピソードは「圧倒的にやばい技術で」「100年単位の社会課題を解決する」ことからは少々離れる。エアコン市場は、おそらくGEかシーメンスあたりが始めたオセロを日本勢が円安の力でひっくり返した(+韓国勢がさらにウォン安でひっくり返した)ものであって、それはイノベーションではなく、事業の成功だ

もちろん、白物家電や自動車の奇跡を今一度!バブルアゲイン!と言っているのではない。なーんだイノベーションじゃないじゃん、とは思わないで欲しい。ここで私が欲しいのは、わかりやすく「日本が勝っている、日本のやり方でやっていける」と信じられる拠り所だ。昭和ノスタルジーに浸るビジネスマンの大半が欲しいのも、ここだろう。

しかし80年代の強みは帰ってこないし、しかも、80年代に日本企業がやったことの大半は私がやりたいイノベーションではなかった。ということなのだと思う。

しかし、夜中まで実験したことを自慢する大学の同級生や、自分の部下は皆お金をもらって好きなことをしていると信じている研究所長を思い出すと、彼らはやはり、他国の研究者・技術者より瞬発力があるように思うのだ。それをどうにか生かすことはできないのだろうか。

 

日本人(日本企業、日本の大企業)の性質のうち、技術革新的イノベーションにおいて絶望的に不利だと思うのは、この3点だ。

・非連続な変化ができない
・巨額の投資ができない
・リスクを取った方針決めができない

一方、日本人(の研究者・技術者)が有利だと思うのは、下記3点になる。

・報酬にこだわらず好きなことをやっている
・研究・技術開発に、高い集中力x長い時間 を投下できる
・しかもそれがたくさんいる

ただ、この有利な3点、これらだけでは大きく空振りする。この性質を持ってすれば次世代の1000億円事業が生まれると期待する経営層を何度か見たことがあるが、技術者の趣味性と集中力だけで1000億円事業が生まれるなら、日本のGDP、あと10倍はいける。

 

私と同世代(2000年代前半に学生だった)かそれ以降の世代は、オセロが負け側にひっくり返される以降しか見ていないので、不利な条件を真っ直ぐ見据えてそこに手を入れたい人が多いと感じる。

しかし今のところそういう課題を扱う職業がなく、次善の答えとして国家公務員、MBA、コンサルあたりを選ぶ人が多い。一部を実際にやってみての感想は、「次善策で遠回りしていたら人生が終わりそう」といったところだ。

「失われた20年」は令和を迎えて「失われた30年」になってしまった。いい加減、社会に新規参入してくる20代に違うフェーズを見せるべきなのではないだろうか。