(元)リケジョのポスト

元企業研究員の元リケジョが、技術革新型イノベーションを諦められない話

「技術の事業化」とは

「技術の事業化」とは

思い起こせば、私のキャリアにおける問題の根源は、

 そもそも私は技術の事業化に関心が高い

この私にとっての大大大大前提が、周囲に共有されていなかったことだと思う。

私も私で、当時は自覚がなかった。理系を志しアカデミアに残らず就職する人間には「技術の事業化を狙う」なんてマインドは当然に初期設定されていると認識しており、ここに疑問を挟むことはもちろん、あえて言語化することもなかった。他人に伝える必要があるなどと考えたこともなかった

しかし、10年以上もキャリアを進めてみると、当たり前でないことがわかってきた。

 

私が考える「技術の事業化」

私の経験上、論が分かれる以前に「技術の事業化って何?」という反応が多かったので、改めて整理してみたい。

まず、私が大学で学んだ方法論はこれだ。

社会課題を解決する手段について
仮説を立て、
ギャップを分析し、
それに必要な事項に優先順位をつけて
研究として実行する。

このフローを自立して本格的に実行するのは博士課程からなので、卒業論文修士論文を書く際には教授・助教授(准教授)が大部分を肩代わりするのだが、こういう意識で実験を実施し、論文を書く。

これに対し、企業(製造業・メーカー・テック系企業etc.)は技術のストックを持っており、それで収入を得る必要がある。これがつまり、技術による事業だ。そして技術の事業化は、大学で学んだ方法論から推察するに、このように進めるものだと考えている。

世の中に社会課題はたくさんある。
その社会課題の中で企業の技術が役に立ちそうなところを探し、
技術を商品またはサービスにし、
量産可能な体制を整え、
供給可能なサプライチェーンを整え、
顧客に認知してもらい、
販売する。
事業が成功すると、社会に商品またはサービスが溢れ、社会課題が解決される。

しかし実際に私が企業研究員としてオーダーされていたのは、決まった狭い範囲の研究をずっと実行することだった。社会課題について考えることも、会社が持つ技術のストックを知ろうとすることも、目の前の責任から逃げる悪しきこととされた。

 

どこからずれるのか

学生の私が思い描いていたことと現実の社会とのギャップに、「既存事業の比率が異様に高い」ことがあった。売上の比率がそうなるのは当たり前としても、私が気になったのは、かけているリソースだった。

ビジネスマンとしては当たり前すぎて今の今まで忘れていたが、大学で学ぶ考え方や研究内容とあまりに乖離がある。学生時代の私は、まさか企業の研究員が、針の穴を通すかのような狭い専門知識を使って、大して代わり映えのしない処方変更を延々と10年レベルで繰り返しているとは想定していなかった。さらに追い打ちをかける事実を告白すると、私が使っていた「狭い専門知識」は大学で学んだものではなかった。企業研究所では、就職後に先輩・上司が指導してくれる内容から見よう見まねで学んだ知識しか使いどころがなかった。その分野とは有機化学(の一部)だったのだが、私は大学入試の有機化学セクションを白紙で提出しており、大学でも大学院でも1単位も取っていない。つまり入社時点では、高校生より専門知識がなかった

もちろん大学で学ぶものは専門知識だけではない。前述の方法論もそうだし、私は高校まで文章を書くのが苦手だったし、ほとんどの高校生がそうであるように、プレゼン資料を作ったこともプレゼンを実施することもなかった。なので、大学に行った意味が全くないとは思わない。

また、優れた企業研究員は、大学で学んだ得意な専門領域で私のような見よう見まね系には思いつかない技術を打ち立てるのだろう。研究機能を持つ企業は、そのような真の企業研究員が真の技術を確立し真に役立つ事業にしていく…ことを前提に人材をプールしているのだろうが、しかし、意識の上でもスキルの上でも、それほどの力を持っている人が多くないことを私は知っている。

 

企業研究者の一般的な前提は何なのか

「技術の事業化」を目指すことが理系の当たり前でないとしたら、大多数の企業研究員の目的や前提は一体なんなのか。理系学部を進学先として選ぶ学生の前提は?企業研究所にいる20代、あるいは将来は企業研究所に勤めると想定している10代を複数人選んで聞いてみると、なんとなく浮かび上がってきた。

安定した食い扶持である。

彼らは研究や技術開発という労働でお金と時間を確保した上で、仕事とは別の自己実現タイムを持とうとしていた

私は30代後半(2020年時点)だが、同世代の一部も実はそうなのだろうと考えると納得がいく。ただし同世代は「仕事に命を賭けないといけない」呪いが10代20代より効いている世代なので、無自覚な人も多い。

ともあれ。

であれば優先度が 新規事業<既存事業 になるのも道理だ。

「安定した食い扶持」という強めな言葉を使ったが、かといって、皆が皆、趣味や副業が生きがいな無気力サラリーマンになるという印象は持たなかった。体感として7割の人は「理系学問や研究が好き」という前提を持っていたのだ。逆にいうと3割はガチで「理系職はコスパがいい」と考えているようだったが、以降はそちらではなく「好き」勢を前提に話す。(コスパ勢も一種の才能を感じるのでいつか考察したい)

「好き」の対象は、魚類に関する生物学だったり、高分子系の材料開発だったりした。ただ、「その『好き』では食っていけない」とか、「その『好き』を企業や研究機関が自分にやらせてくれる可能性は限りなくゼロに近い」という諦めの思考を持っていた。ならば仕方がない、仕事とは別の時間を持とう、というわけだ。

これについて「夢がない」「熱意がない」と思う人はいるだろうか。そうだとしたら、人生が順調なのだと思う。進学・就職・配属・異動・転職を一通り済ませた身としては、極めて現実的な判断だと言わざるを得ない。企業内の研究系の配属では、「東大を出た」や「有名研究室を出た」「論文の出来がいい」程度の努力は全くもって無意味に帰す。いや〇〇分野では東大より九大だから、とかそういう話ではない。どこの有利な大学であろうとそれだけでは尊重してもらえない。出身大学が強い20代をを100人単位で横並びにし、そこから熱意と優秀性ではなく政治的にパズルをキメるのが配属である。熱意より政治が強い。嘘か本当かもわからない新入社員の「ずっと〇〇をやるために頑張ってきました!」よりも、部長の「2年連続〇〇大だからそろそろ違う大学にしてよ」が強い。学問的なこだわりが強い人は、退職して大学に戻ることもある。それくらい合わない研究をさせられることは珍しいことではない。ただ、多くの人は学問的なこだわりよりも収入にこだわりがあり、経済的に今より困窮することが明らかなアカデミックポストに戻る選択はしない。結果的に、前述の私のような「見よう見まね研究者」が生まれる。

複数人にヒアリングしてわかったことだが、生物が好きな人は、仕事外で対象研究の時間を取ることを決めている。私は生物が好きではないので知らなかったが、副業で論文を書く人もいるそうだ。その最終形態が、魚が好きだとか虫が好きだとかが高じてタレント化する学者なのだと思う。彼らはもちろん常人にはない集中力と知識と他人へのプレゼン力を持ってその地位を確立しているわけだが、彼らから学べる最も重要なことは、その千里の道を、小学生のお小遣い程度の元手で始められるということだ。だから小学生にすらフォロワーがいるし、仕事外で研究を続けるというライフスタイルが確立されている。

これに対して化学系は辛いなと感じたのが、素材開発だとか有機合成化学が好きだとかいう人は「では仕事外の時間でやりたかった研究をやろう」にはならないということだ。研究ができる環境を整えるのに何億円かかるかわからないというのが一つの理由だろう。ノーベル化学賞を取った人の軌跡を学べばわかるが、だいたい企業の大金が動いている。しかも総額いくらなのかわからないし、おそらく当の企業も把握していないだろう。ノーベル賞受賞者の小学生の頃の実績は「ファラデーの本を読んだ」だったりする。虫や魚の観察と違って、大人が真似できる「趣味」にはならない。結果として、化学が好きでその道に入ったはずの未来の研究員は、「本当にやりたかったことはなんだろう?」という、難しい人生の問いに入り込んでしまう。好きなことは、虫の観察よろしく〇〇化学だったはずなのだが、それを続けるライフスタイルのモデルがないのだ。

そんな見えない人生の中で、総員「技術の事業化」を目指せというのは酷なのだろう。

 

技術の事業化をどうやるか

しかし彼らには「好き」があるのである。「好き」で進路を選んでいない私には、それは才能に思える。

「好き」とは違うものをやらされて18時間週5日以上の労働時間を適当に過ごしている研究者・技術者は、一体日本に何十万人いるのだろうか?

「技術の事業化」について、当記事前半にこう書いた。

世の中に社会課題はたくさんある。
その社会課題の中で企業の技術が役に立ちそうなところを探し、
技術を事業化する。
つまり、商品またはサービスにし、
量産可能な体制を整え、
供給可能なサプライチェーンを整え、
顧客に認知してもらい、
販売する。
事業が成功すると、社会に商品が溢れ、社会課題が解決される。

世間には、あまりにも後半の話が多すぎる。量産体制だとか、マーケティングだとか、広告だとか。確かに日本企業には、そこが杜撰すぎて誰にも求められていないような商品を作り出して時間と金を無駄にしてきた歴史があるのだろう。だからといって後半を強化しすぎた結果、現在は、浅い技術を使った思いつきの浅い商品が溢れかえっているように思う。さらに経営者が後半に人を投入しようとするので、研究者の生き方はより技術から離れ、諦めはより一層強くなっている。

企業、特に大企業というのはよく出来ていて、要らない仕事がたくさんある。私一人が年度の途中で抜けようと年間○兆円の売上は今年も得られるし、企業たるものそうでなくてはならない。だからこそ前半(社会課題の中で企業の技術が役に立ちそうなところを探す)にリソースを投入する遊び性が持てるのだが、なぜか近年の大企業にはその遊び性がないらしい。その原因は株式会社の逃れ得ぬ特性だとか、欧米を真似しすぎだとか、いろいろあるが、そのあたりの分析は日経ビジネス東洋経済に任せるとして、遊び性を持たせるにはどうしたらいいのか。

科学史や文化史などの長いスパンで歴史を見ると、大体の物事は一方向に流れていて、戻るのは難しいように思う。とすると「元々あった遊び性」が「なくなってしまった」というトレンドが錯覚でないなら、企業に遊び性を戻すのは難しいのではないか。

それでは、企業外で「好き」を追求する場を作るというのはどうだろうか。企業外に生き甲斐を見出すライフスタイルが顕著になってきているので、企業外の時間に「本命=好き」を当てに行くのだ。